この前、祖父が亡くなったんです。身近な人の死というのは物心ついてから初めてだったので、恥ずかしながら宗教や葬祭関連についてよく知らずに困った事がいくつかあったんですよね。
その中の一つが、お呼ばれされてた結婚式へ参加するかどうか論争です。今回はこれについてまとめてみたいと思います。
目次
前提:喪中、忌中で参加するか欠席するか
まず、結婚式に参加するかどうかを判断する上での前提を、私のケースで見ていきます。
祖父の宗教
亡くなった祖父は、仏教の「浄土真宗」でした。
とはいえ、多くの日本人のようにご先祖のお墓があるお寺が浄土真宗(なだけ)で、日常生活ではその宗派の戒律を重んじるとか、そういうのは特になかったように聞いています。
友人の結婚式の宗教
チャペルでの挙式なので、一応キリスト教式です。
もちろん、キリスト教徒以外でもチャペルでの挙式は可能なので、新郎新婦の宗教観は実際わかりません。(そこまで聞くことも通常ないですよね)
私の信仰
特に信仰はないです。日本では超マジョリティの一員のように思いますが、たまに神社やお寺にお参りに行くくらいです。
ここまでのところ、よくある話ですね。友人の結婚式については一般的にはチャペルだったりホテルだったり、色んなバリエーションがあるかとは思います。
では、次に「喪中、忌中ってそもそも何?」ってところを調べてみました。
喪中と忌中の違いとは?
これ、今まであんまり気にしたことなかったんです。年賀状の関係で「喪中」の言葉自体は知っていましたが。。
まずその違いを見てみます。
喪中(もちゅう)とは?
喪中とは、「忌中を含む一年間」とのこと。この意味については引用してみます。
喪中とは、近親者が亡くなられた場合にご遺族が故人の冥福を祈り、喪に服する期間です。
この期間中は目立つ行動やお祝い事などを慎み、静かに過ごすこととされています。 –終活ねっと
昔のしきたりで、故人を偲ぶ、というものですね。いわゆる喪に服す、というもの。
忌中(きちゅう)とは?
忌中とは、「仏式では四十九日の法要まで、神式では五十日祭まで」とされます。
遺族が祭りなどに参加せず、こもって弔いに専心する期間のこと。遺族は死穢に染まっているので隔離されるという意味もある。 –葬式用語 Weblio辞書
喪中と忌中の違いとは?
じゃあ、喪中と忌中の違いとは何かというと、上記のとおりまず期間が違ういます。
その意味合いとして、「喪中が故人を偲ぶ期間とされるのに対し、忌中は穢れを避ける期間」が違うということですね。
一般的な意見:喪中、忌中で出席する?
しかしそこは現代人の私、世の皆さんの意見を知るためにネットのQAサイトに行き着くわけです。
「喪中、忌中の場合の結婚式参加」については、ほんとに多種多様な回答が飛び交っているんですよね。
「喪中、忌中なら結婚式への参加は自重すべき」という意見の一方で「気にしなければ良いのでは。ドタキャンなんて迷惑だし」という意見も。
どれも一理あるが結局答えは人による、でしたね。
迷っていた時、兄にぽろっと口にしたところ、「神社での挙式じゃなければ参加で良いんじゃない?」という返答が返ってきたんです。
たまたま兄の子(私の姪)のお宮参りを控えていたのですが、こんなタイミング(忌中)なので延期したらしく、神社事情に詳しかったのです。
死や穢れ(ケガレ)の概念
忌中は神社の鳥居をくぐってはダメ。これがよくわからなくて、神道における死生観を調べてみたところ、興味深い事実が今さら発覚したんです。
神道と仏教の場合
さっそくですがWikipediaから引用してみます。
神道と仏教
両者とも穢れに対する意識はあるが、もっとも異なるのは、死そのものに対する考えで、神道では死や血を穢れとするが仏教では神道のようには死を穢れとみなさない。 –穢れ – Wikipedia
神道と仏教では死に対する概念が違っていたんですね。これは今まで気にしたことはありませんでした。
つまり、忌中だと近親者を亡くした人は穢れているので、神の領域である入り口の鳥居をまたいではダメ、という理論だったんです。
ちなみにキリスト教はどうなんだろう、ということで調べてみました。
キリスト教の場合
こちらも引用します。
キリスト教では、死は命の終わりではなく、天上の神から地上での罪が許され永遠の安息を与えられることとされています。 -葬儀支援ネット
キリスト教においては、死ぬこと=神のもとに帰ることであり、悲しいことではなくむしろ喜ばしいこととして捉えられています。 –小さなお葬式
つまり、キリスト教では死は穢れどころか喜ばしいことという、神道とは全く逆の意味合いだったんですね。思想って面白いです。
- 神道:死は穢れ
- 仏教:死は穢れではない
- キリスト教:死は喜ばしいこと
判断ポイント
話は戻って、「忌中の結婚式に参加するか否か」を判断する上でのポイントはどこかというと、日本人の土着信仰として身についている「神道の考え」をどれだけ考慮するか、にあると考えました。
なぜなら、その論争の一派「忌中での祝い事には欠席すべき」っていう考えが、そもそも神道によるものだと分かったからです。
穢れについてもう少し考えてみるにあたって、もう一つ以下のことがわかりました。
もともと神道においては、穢れは「気枯れ」すなわち「生命力の枯渇」のことであるとされ、… - 穢れ – Wikipedia
なるほどー、死そのものが穢れているというよりも、近親者の死によってもたらされた負の状態って事ですね。これは何となくイメージつきます。
私のスタンス
これまでの調べた事から、「喪中」「忌中」っていう考えは宗教的なものではなく、日本人の土着の慣わしと分かりました。
そして導いた私の考えですが、「近親者が亡くなり、慶事や祭事を心からお祝いしたり楽しんだりする余裕のない程に悲しみに暮れる間」は忌中として、行動を控える、でいいのではないかと。
逆に言えば、物事に対する感情的な余裕があれば、気にしなくて良いのではないかということです。
今回のケースでは、もう良い歳だった祖父は、天寿を全うして穏やかに逝きました。
悲しくない訳ではないですが、ものすごく自然な成り行きだったと思うので、私の日常生活において、いつまでも悲しさを引きずるといったことは無かったのが実情です。
という事でようやくスタンスが決まったんです。結婚式にはぜひ参加させて頂こう。と。
私と友人のケース
とはいっても、結婚式は新郎新婦が主役なので、参列者に私のような忌中の者がいたら嫌な気持ちになるかも、と考えました。(考えすぎかもですが)
挙式はキリスト教式ではありましたが、新郎新婦がどちらかでも神道の教えを重んじている可能性を考えて、本人に確認したんです。
すると「気にしないからぜひ参加してほしい」との回答だったので、私は堂々と式に参加する事ができました。よかった~、ようやく安堵です。
しかし、おめでたい席への出欠相談でこんな話を出すかどうかも迷ったんですよね。ただ、せっかくの大事な友人の式に、悶々とした気持ちで参列するのも嫌だったので、直接確認しました。
余談ですが、相談したのは私側がスッキリしたかったというエゴだったかなぁ、と反省もしたんですよね。もしかすると、知らぬが仏の方が良かったのかもしれません。
新婦の友人に余計な気を遣わせてしまったかも、と思ったんです。
そのあたりのやり取りは何とも難しいですね。
まとめ
冠婚葬祭のしきたりと宗教。これ、難易度高いようで実はとてもシンプルなのかもしれません。私は結局、自分と相手が気にしなければ、したいようにすればいいと思ってます。
神道、仏教、儒教、土着の風習。色んなしきたりを柔軟に合わせて生活している日本人ですもんね。今や何でもありといえば、何でもありじゃないですかね。常識の範囲でね。